生い立ち

ふなやま由美 わたしの生い立ち

1968年4月22日  農家の次女として生まれる。

・両親、兄、姉、祖母、叔父、自分の7人家族で、幼いころから活発で自然の中で育つ。

父は農業、母は青果市場勤務で早朝から夜遅くまで働く苦労を見て育つ。

家では田畑を耕し、ヤギやにわとりなど飼っていた。ヤギの乳を飲み、

卵や野菜など自給自足。経済的に豊かではないが、自然の中、すくすく育つ。

母の実家では和紙(紙漉き)の原料のこうぞの皮むき、養蚕の手伝いをした。

 

1975年 丸森小学校入学

・小学3年生まで和田分校に通い、4年生から本校へ。
栗拾い、山登り、沢で遊んだ丸森小学校の児童会の作詞を行い、今も丸森小学校の体育館に歌が掲げられている

 

1984年 丸館中学校卒業

・中学校では生徒会副会長を務める。
仲間の中で、悩みを語りあい、バスケット部に所属し汗を流した

 

1987年 角田女子高校卒業

・自宅から約12キロの道のりを自転車で通う。
走ることが好きだったので、陸上部に所属。100mやリレーなど短距離選手だった。

父の死に思ったこと

高校2年生の夏に、難病を患う父が、45歳で急死。前の晩、元気に一緒にカレーライスを食べたのに、翌朝、布団の中で冷たくなっていた。

この時に、何もできなかったとの体験から,命を守る仕事につきたいとの思いが強くなる。

 

1991年 宮城県総合衛生学院、臨床看護学科の後、公衆衛生看護学科卒業

・父が亡くなったとき、兄は東北大医学部の学生、姉は保育士をめざし短大(二部)で学んでいた。

「高校卒業し就職して、家計を支える」と母に話したとき、母は「自分の好きな道を歩け」と言ってくれた。

育英会や県の奨学金、民主医療機関連合会の奨学金を借りて卒業できた。

 

1991年 宮城厚生協会に就職 (長町病院、古川民主病院 勤務)

・保健師、看護師として病棟や外来勤務、訪問看護活動、健診、健康教室などの保健予防活動に従事する。

介護保険制度スタート時には、ケアマネジャーの資格も取得。

「経済的な困難から、受診できない方や薬を間引いて飲んでいる患者や、過酷な労働で健康を壊す患者の実態に接してきた。

● 病院では「おくりびと」の仕事も

病院に就職したころでした。お金がなくて、がんが手遅れになった人。自ら命を絶った人。病棟で患者が亡くなると、亡くなった人の体をふき、口紅をひきます。エンゼルケアというその仕事をしながら思いました。
「もっとやさしい社会だったら、死ぬこともなかったろうに」この体験がその後議員をめざすときの後押しになりました。

1995年に発生した阪神淡路大震災で、医療支援に。

橋桁が大きく倒れた高速道路や倒壊した家屋、マンション、焼け跡のまちで、避難所に薬を届けたり、夜間帯に精神的にパニックになった患者さんに支援を行う。

1991年6月、日本共産党との出会い

・侵略戦争に命がけで戦争反対を貫いたのが、日本共産党だと知り23歳で入党する

民主青年同盟副委員長や県医労連女性部書記長などを歴任し、平和運動、社会保障運動を仲間と共に行う

 

2003年4月 仙台市議会議員初当選

 灯油代助成を実現

底冷えする日でした。古い平屋で、すきま風がヒユーヒユー音をたてるなか、80代の女性が震えていました。原油高騰で、灯油を買えないのです。
その姿を議会で訴えました。懸命さが届き、市長は急きよ4億円の予算を決断。高齢世帯や低所得世帯に灯油代助成を実施しました。
妊婦健診への助成制度では、お産の際に17回も病院をたらい回しされた事例を訴え、助成額を4倍以上に拡大させました。
「目の前の困っている人を救えない市政では、103万市民は守れません」おびえながら相談に来た女性は、夫の暴力に8年間も耐えていました。バールを振り上げる凶悪なものでした。すぐに対処し、母子を守りました。

 いのちを守るまちづくり

命を守るという、議員を志した原点は、まちづくりにも生かされます。地下深く、直径4メートルもある巨大な雨水排水管のなかで、市民を水害から守る都市の力を誇らしく思いました。防災や交通、除雪など都市整備に力を尽す。

 ニューヨークの核不拡散会議に参加

ニューヨークで開かれた核不拡散条約会議に参加しました。思えば、核兵器の恐ろしさを知ったのは22歳のとき。被爆者の話を聞いたときでした。20年を経て、国際会議へと広がる活動の舞台。

 

 住民の身近な相談相手として、病気や失業、貧困、DV問題など苦しむ市民に寄り添い、その解決のために力を注ぐ

・高すぎる国保料の引き下げ、ドクターカーや救急医療充実、福祉灯油制度、妊婦健診拡大、子ども医療費助成制度拡充など住民とともに取り組む。

・仙台市議団の取り組みで、耐震補強助成制度、仙台市地下鉄にホーム柵を実現させる。

2011年 東日本大震災の救援救助の先頭に立つ

・長町の県議事務所が救援センターに。連日、避難所や地域をまわり、支援者制度を知らせたニュースを配布しながら、走る。おにぎりを届けたり、ボランティアの皆さんと活動し、議会で市民意見を直接ぶつけ、栄養バランスのとれた温かい弁当の支給など救援の手を急ぐことを求める。

・復興公営住宅建設を求める運動で、当初計画にない「あすと長町地区」に3棟約320世帯分の住宅建設、被災者医療費免除復活の運動を行う。
いのちを守る党の誇りにかけて

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